国際医学誌Lancetでは2011年に国民皆保険50周年を記念した特集が掲載されたが、2026年7月15日には再び日本を主題とする特集が組まれたことが発表されている。今回は2本の政策レビュー論文からなり、一本は国内の医療制度、もう一本は国際保健戦略となっている。
この投稿では国内の方の論文を扱う。
https://www.thelancet.com/journals/lanwpc/article/PIIS2666-6065(26)00124-0/fulltext
本論文は、専門家25名による学際的ワーキンググループの分析に基づき、日本の医療政策が停滞から抜け出せない3つの構造的課題を分析し、パラダイムシフトに向けた“Vision 2040”と具体的な政策アクションを提言している。
【日本の国民皆保険制度(UHC)の危機と2040年への構造転換ロードマップ】
日本の国民皆保険制度は、長年にわたり健康長寿社会を支える世界的なモデルとして評価されてきたが、現在、深刻な制度的停滞(institutional stagnation)に直面している。2040年には人口の3分の1以上が65歳以上となり生産年齢人口(15〜64歳)が急減して税収基盤が縮小する一方で、最も医療・介護を消費する75歳以上の人口が急増するという人口動態のスクイーズ(圧迫)が生じている。そのため、既存の診療報酬改定や枠組みのままでは、社会保障を維持することが不可能な局面に立たされている。
【日本の医療政策を縛る3つの構造的課題】
1. 新たな健康課題とレガシー制度のミスマッチ
1990年から2023年にかけて、日本のDALY(障害調整生命年)は、神経疾患が174.1%増、糖尿病・腎疾患が75.6%増となるなど、急性期医療から長期の慢性期管理・介護へと劇的に変化している。 しかし、制度はいまだに20世紀の疾病構造に合わせて設計された出来高払いのインセンティブに縛られている。これが病院・診療量中心の医療提供を促し、上気道炎に対する不必要な抗生物質の処方など、価値の低い医療(low-value care)の過剰な提供を生み出している。さらに、病床機能の再編(地域医療構想)は10年経っても目標に遠く及ばず、医師から他職種へのタスクシフトも専門職の壁に阻まれ、結果として機能的な医師不足を引き起こしている。また、高齢者を抱える低所得世帯に重い医療・介護費の負担がのしかかる逆進性が放置されている。
2. 時代遅れのインフラとトラスト(信頼)の欠如
医療、福祉、介護のデータが制度ごとに縦割りに分断されており、健康の社会的決定要因(SDOH)の把握や、価値に基づく政策評価が不十分である。政策評価は行政の現状追認データに依存し、効果のないプログラムが存続し続けている。さらに深刻なのが、科学的なリスクコミュニケーション体制の未発達による公的な信頼の欠如である。具体例として、HPVワクチンの積極的勧奨が2013年から2022年まで長期間差し控えられた事例や、COVID-19ワクチンの初期の展開の遅れなどは、政府が疫学的根拠よりも世論の不安に引きずられ、結果的に国民の健康リスクを増大させた典型例である。
3. 閉鎖性とグローバルな相互依存の過少評価
日本の政策決定は国内に閉じており、グローバルな相互依存を外交上の課題としてのみ捉え、国内改革のリソースとして活用できていない。例えば外国人労働者の受け入れも、システムの学習や公平な統合ではなく、短期的な労働力補充の枠組みにとどまっている。また、選挙サイクルが短いため、中長期的なメリットをもたらす痛みを伴う改革を推進するインセンティブが働きにくく、改革志向の繋がりも分断されたままである。
【構造的課題を解く鍵——HTAの抜本改革と循環型イノベーション】
A. 医療技術評価(HTA)の限界と改革の必要性
本論文には日本のHTA制度への痛烈な批判が含まれている。日本のHTAは、増分費用対効果比(ICER)という数値を機械的に薬価の引き下げに直結させており、イノベーションの多角的な価値評価というよりコスト削減ツールにとなっている。例えば、英国(NICE)が実際の治療経路を反映した比較や、家族介護者の生活の質(QALY)への好影響をベースケースに含めるのに対し、日本は単一の低コスト治療との比較に限定し、認知症治療薬のような家族への波及効果が大きいものも過小評価する構造的なバイアスを抱えている。本論文は、HTAを単なる価格調整メカニズムから、透明性のある多角的な価値評価プロセスへと刷新する必要性を訴えている。
B. 循環型イノベーション(Circular Innovation)の提唱
次に、今後の日本の戦略として循環型イノベーションという概念を提示している。これは、日本が過去の成功体験(2000年導入の介護保険制度など)を海外に輸出するだけでなく、デジタルヘルスやコミュニティヘルスワーカーの活用など、アジア太平洋地域のパートナー国で進む最先端の実践を日本へ逆輸入(輸入)し、双方向に学び合うシステムを構築すべきだというアプローチである。
【2040年に向けた3つの目標と具体的なアクション(Vision 2040)】
これらの課題を解決するため、論文は以下の3つの目標に基づく具体的なガバナンス、データ活用、資源配分のロードマップを提唱している。
目標1:病院中心から開かれた地域基盤のエコシステムへの転換
医療モデルの枠を超え、日々の生活機能とウェルビーイングを重視する体制への移行。
· 社会との接続: 医療と地域社会の支援を繋ぐ社会的処方を非医療的なガバナンスのもとで制度化し、社会的孤立を防ぐ多世代共生コミュニティに投資する。
· 人材の循環: 日本をアジアの介護人材育成のハブと位置づけ、一時的な労働力確保ではなく、相互のスキル移転を優先するパートナーシップを築く。
· データの統合: 医療モデルを超え、日常生活機能を中心とした人間中心の統合データ基盤を構築する。
目標2:ガバナンスの基盤となる信頼と科学的独立性の確立
· 独立機関とリスクコミュニケーション: 政治的決定から法的に切り離された独立した科学的助言機関を設置する。また、誤情報を国家安全保障上のリスクと定義し、エビデンスに基づいたリスクコミュニケーションを政府の危機管理に組み込む。
· 市民参加: 政策評価のプロセスに市民との対話を組み込み、科学的リテラシーを育む教育を導入する。
目標3:循環型イノベーションを通じた公平性の確保
· 価値に基づく資源配分: DALYや家族介護者の負担、生産性損失といった社会的価値の指標に基づいて診療報酬を見直し、価値の低い医療(low-value care)を公的保険から除外する仕組みを構築する。
· 透明性と説明責任: 政策決定における政府と業界(製薬・医療機器・患者団体など)との利益相反を防ぐため、やり取りの情報開示を義務付ける。また、医療機関の臨床結果と費用対効果を標準化された指標で公開する。
· 財源確保と弱者保護: タバコなどの健康被害をもたらす製品への課税を強化して予防財源に充てるとともに、高額な医療費・介護費の合算負担から低所得世帯を保護する制度を再構築する。
結論としては、日本の国民皆保険を未来へ繋ぐためには、過去の遺産を微修正して維持するのではなく、根本的な再設計が必要、ということになる。